徳川将軍家と薬の関係とは? | 薬にまつわる歴史

薬にまつわる素朴なギモン

徳川将軍家と薬の関係とは?

戦国時代に終止符を打ち、太平の世である江戸時代を築いた徳川将軍家には薬にまつわるエピソードがあります。今回はその一部をご紹介します。


健康オタクが行き過ぎて薬を自分で作った徳川家康

戦国時代を生き抜き江戸幕府を築いた徳川家康ですが、彼はドが着くほどの健康オタクでした。読書家でもあった家康は医学にも通じていたようで、医者が出す薬を飲まず、自分で作った薬を服用していたそうです。薬草の栽培にも力を入れており、家康が晩年に過ごした駿府城には駿府御薬園という施設も作っています。学者の林羅山が長崎から医学書を持ち帰ると研究会を発足させるとさらに医学について知識を深めています。

そのおかげか、家康は60歳になってからも子供を2人ももうけるという健康ぶりだったようです。そんな家康の死因は現在では胃がんではないかと言われています。それまでは大好きなてんぷらの食べ過ぎが死因と言われていましたが、食事後に胃の痛みを感じていつもどおり自分で診断して薬を服用したようです。しかし、痛みが引かないことにおかしいと思った家康は死期を悟ったようです。


水戸黄門の印籠は実は薬入れ

印籠と言えば時代劇「水戸黄門」のクライマックスでいつものように披露して悪人たちを平伏させる、と言った光景が思い浮かべますよね。元々は中国から伝わったころには印鑑を入れるものでしたが、宮中で火打石を入れる容器になりますが火気厳禁となった際に薬を入れるようになったそうです。

実はドラマの中でもお供の八兵衛が食べ過ぎで困っていた時にその中から薬を出すシーンがありました。構造は木製、もしくは金属製の3段から5段に分割できる作りだったようです。ちなみに水戸黄門こと水戸光圀は庶民が医者にもかかれないことを気の毒に思い、藩医に庶民向けの薬の本「救民妙薬」を作らせています。これは田舎でも手に入る薬の処方を397種類に選定した家庭でもできる医学書でした。


暴れん坊将軍の貧民対策~小石川養生所~

江戸時代の中ごろになると江戸の町は農村からの人口流入により人口増加し、生活困窮者であふれかえっていました。ドラマ「暴れん坊将軍」で有名な徳川吉宗はこの対策の一つとして小石川養生所という無料の医療施設を設置しました。これは江戸の町医者であった「赤ひげ先生」こと小川笙船が目安箱に投書した意見を元に作られました。以前から薬草を育てていた小石川御薬園の中に作られ、収容人数は40名で投書を行った小川笙船をはじめとした医者が勤務し治療に当たり、幕末までの140年間、身寄りのない貧民の救済施設として機能しました。

ちなみに当初は御薬園の中に作られたことで、江戸庶民が中で薬の実験台にされると怖がったそうです。これには各町の有力者に施設を案内するなどして不安を取り除いたことで利用者が増えました。その後、西洋医学の発展とともに次第に漢方医の質が衰え、明治維新で一度廃止されますがその後、現在の東京大学の理学部に組み込まれ、現在に至ります。

江戸時代にはこの他にも他の藩でも小石川養生所と同じような施設が作られたり医者の学校が作られたりして人々の救済に当たっていました。これも徳川家康の薬マニアだったことが影響しているのかもしれませんね。